筆をとった次第です(仮)

横浜と上海の往復書簡です。

2023年12月3日:横浜14℃


なっちゃん

日本は随分と冬らしさが増してきましたが、そちらはいかがでしょう? 

季節の変わり目は気圧の変動が大きくて、いつもその影響を受けて体調があまり良くないのですが、一般的によく聞く低気圧のときだけでなく、気圧が一気に上昇するときにも体調が悪くなることに最近気付きました(むしろそちらのほうが良くないかも)。そういうときは、空が晴れていることが多いので、なんとなく余計に自分だけがダメな人間であるような気持ちになります。

たしか、なっちゃんもわりと気圧の影響を受けるタイプだったように思いますが、上海でも同じですか? 実はマルタにいたときは、気圧の変動による体調不良がなかったのです。おそらく地中海気候の乾いた天気が続いていたから? 3か月しかいなかったので真偽のほどは謎ですが(調べても出てこなかった)、もしそうだとしたら、この世界のどこかには気圧の変動などに影響を受けないで過ごせる場所があるということなのか? と、日本の湿度ある空気を身体に重く感じながら、ベッドに沈んで考えていました。

健康の話が続いて恐縮ですが、10月終わりに帰国してからというもの、仕事や趣味のことに忙殺されてしまい、うまく眠れない日が続きました。大きな締め切りをいくつか越えると、急に眠れるようになったので、随分とストレスが掛かっていたのだな、と。
分かってはいるけれど、いつまで経っても生活をうまくコントロールできずにいます。この間少し話したときにも思ったけれど、「無理をすればできる」を「できる」に含んでしまっているのが、私もなっちゃんも大きな問題なのかもしれません。

私の場合は、結局のところ、自分が「無理をする」というのが一番楽な選択肢なのです。それは自己犠牲とかそういうのではなく、本当に文字通り「楽」なのです。なっちゃんはどうですか?

突然話は変わりますが、先日読んだよしながふみ先生の『環と周』がすごく良かったので、その話をさせてください。「環」と「周」という名前の登場人物が出てくるオムニバス形式の連作なのですが、めちゃくちゃ要約すると生まれ変わりの話でした。色々な時代の、色々な性別の、色々な年齢の、それぞれの話が1冊の中でそれぞれの意味を持ち、そして繋がっていく物語の運び方がさすが、素晴らしいとしか言えません。気が向いたら読んでみて。

生まれ変わりというと、この作品とは全く関係ないことを急に思い出しました。「生まれ変わるとしたら、女と男、どっちがいい?」という話題が学生時代に出たことがあったなということです。何度か別々の集団で上がったような気もするし、世間一般の世間話としてわりとポピュラーなものかもしれません。なっちゃんはありましたか?

当時、十代の私がその問いにどう答えたのかは、正直思い出せません。ただ、どちらかを選んだのは確実だったし、そのふたつだけで世界を語ることになんの疑問も抱いてなかった。今思うと、それはなんて暴力的なことだろうと怖くなります。特に20代の終わり頃までは、私は世界をとても単純化して、マジョリティの側からしか見ない、偏った思考の中で生きていたから、随分と多くの人たちを知らぬうちに傷つけ、踏みつけて来たんじゃないかと思います。勿論、今もそれがないとは絶対に言い切れないけれど。

今日、とんでもないトランスヘイトの翻訳本が出版されるという話をSNS上で見ました。そのタイトルと概要しか見ていないけれど、昨今ネット上でよく見るトランス差別の人たちの言説そのまんまで、こんなヘイト本をよくもまあ翻訳権を買ってまで…と信じられない気持ちと同時に、書店で面出しでヘイト本が並んでいる現実をよく見知ってもいるので、然もありなんと思う気持ちもありました。ただ、それに怒りを覚えたり、絶望を感じたりするのはまた別の、絶対的な事実でもある。

この間、本(文字)を読む人がいない、という話をしましたよね。それとも少しつながりますが、「学べというなら読めるようにしてくれ。こんなに細かい字で書かれても読めない」と、トランス差別を表明している人がトランスジェンダーについて書かれた書籍を写真に撮ってあげていたのを見ました。その画像のページは特別に細かい字ではなく、なんなら少し余白すらあるように感じた。ある程度の分厚さがある、長い文章が連なっているのを読めない、と投げ出してしまう。はなから話を拒否する姿勢がインターネットと相性が良く、確証バイアスを助長し、SNS上でトランス差別が蔓延っている理由のひとつなのだろうと思いました。

数年前からすっかりトランス差別に傾倒してしまった友人がいて、未だにSNS上で差別的な言論を拡散し続けているのを知っていて、私は何もできないでいます。最初の頃、明らかにおかしな話になり始めたと思ったときには、私は私なりに当事者の書籍やウェブ記事などを勧めつつ、それはおかしくないかと話していたのだけれど、私の話は全くもって伝わりませんでした。

私は私でしんどくなり、いつからかその手の話題を避けるようになってしまい、今に至る。きっと友人は、ひとつも書籍は読んでいないし、ネット上に溢れる、分かりやすく過激な言論の中に居続けていると思います。ある人がトランス差別をしている人たちは洗脳されているようなものだから声なんて届かないよ、と言っていて、そうなんだよなと思ってしまいました。その決めつけもまた危うさを含みますが。

そんなことを言いながらも、私自身も忙しさを言い訳にして、いまだに不勉強であること、無知であることばかりで、友人のひとりも止められる言葉を持たない。トランス差別の件に限らず。本当に恥ずかしいことだし、何もしないことは差別に加担することでもあるので、どうにかしないとと思いつつ、現実と現実逃避の中でいっぱいいっぱいの日々。自分が不勉強であることを学ぶことも、あの徒労感を乗り越えることも、よっぽど心身ともに健やかでないと無理でしょう。私も含め、多くの現代人が疲れすぎているのだろうと思います。精神科の先生が私に言った「みんな薬がないと眠れないの。普通だから大丈夫」という言葉が真に迫ります。

あと、似たような?話がもうひとつあって、先日久しぶりにふたりで会うことになった友人と新宿を歩いていると、わりと大規模なガザへの攻撃中止を求めるデモに出会って、伊勢丹の向こうのところの十字路がしばらくの間、通行止めになっていたんです。

その友人が「怖い」「邪魔」みたいなことを言ったのを、私は曖昧な態度で話をそらすしかできなかった。きっとなっちゃんならちゃんと話をしてたのかな、と、随分前に聞いたマッチングアプリであった人に喧嘩をふっかけた話を思い出しました。

当然、新宿の中心の大きな道路を通行止めにするほどのデモなので、届出をして許可されているというのは自明のことと思っていましたが、友人は「そうなの!?」と驚いた様子だったので、それすら知ろうとしないと知らないのかと愕然としました。

でも、やはり私も同じように、ずっと知ろうとしなかったのです。その意味では、鬱になったことは幸いでもありました。知ろうとしなかったことの中には、自分自身も苛んでいたことが沢山あったので。勿論、壊れてしまう前に気づけるのが一番良いことではあるのですが。

なんの話だろう。とにかくなんで人間は憎しみ合うのだろうか、と果てしない気持ちになってしまう。違うということを受け入れるのが、こんなにも難しいのはやっぱり誰にも余裕がないからなのかなとは思います。

そういえば、先日友人に勧められて、原稿で死に体になりながら観に行ったテイラー・スウィフトのライブ映画がすごく良かったです。ポップスターのライブという感じで、すごくパワーをもらいました。実は、あんまり聴いてこなかったので、それからというものセットリストを作業用BGMに聴いたりしています。映画を観ていて知ったのですが、彼女は89年生まれなので、がっつり同世代なのですよね。だから何というわけでもないですが、やはり少し親近感のようなものも湧きました。

それを観た後、そういえば、最近ライブに行けていないなと。たまに機会があると言えばあるのですが、音楽に対してはすっかり腰が重くなってしまい、新しい音楽を聴こうという意欲が減退してしまっているせいでしょうか。大学生で上京し、20代の半ば頃まで、たがが外れたようにライブハウスに通っていたのが懐かしいです。体力的にももはや、ライブハウスの二階席に座りたいくらいなのですが、とはいえ年に1回くらいはライブハウスに足を運びたいものです。なっちゃんは最近のライブ事情はどうでしょう?

なんだかとてもとりとめの無いお手紙になりました。これを書くことになって、歩きながらとかお風呂に入りながらとか、不意にこれを書きたいな、と考えたりはしていたのだけど、書き留めておかなかったから、全部忘れてしまいました。でも、なんだかそれでいいような気もするし、気が向いたら書き留めておこうかなとも思います。

今年は久しぶりに年末年始を実家で過ごすことになりました。なっちゃんはどう過ごす予定ですか? 
いずれにしても、きっと上海も寒いと思うので、身体には気をつけて。

わでぃ